昭和50年11月17日朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場、売場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい」
ここで大事な事は、目先は二銭損のようでもと。どんなに考えても人間心でするならば、普通の常識からするならば、右にした方が本当のようにある、けれども神様が「左」と仰せられるから左を取るのじゃ。ここが一番大事な所です。昨日は合楽の青年集会がございましたから沢山の青年の方達が、昨日終日四時までのが小一時延びまして、本当に何というですか、皆んながそれぞれ有難い感銘を受けて帰った事だと思うし。
又その信心の指導的な立場でそれぞれ先生達やら、御信者さん達、菊栄会の方達、それに参加されまして、いろいろな形式をとりながら信心の研修をされました。それで午前中、私がしばらくお話をさせて頂き、又午後に皆んなで研修された後に一口をお話させて頂きましてから、どう言う様な事をお話しさせて頂こうかと思うてから教典を開かせて頂いたら、この七十九節でした。まあこれが商売人だけにと言う事であったら、あんまり縁のないことでございます。ね、
若い青年の方達ばっかり、それからまた最後の時に、最後の締めくくり的な、話させて頂く時でも又私教典を開かさせて頂いたら、またここを頂いたんです。だから私はいかにここの所を大事にしなければならないか、まあここの所というのは、例えば教祖様の言われる事を本気で守らなければいけないかと、言う事だと言う事です。教祖様が教えて下さる「商売をするならば、売場買い場を大事にせよや」と言われても、売場買い場を大事にしよらん「よそよりも幾らかでも安く」と言いよるのに、よそよりもむしろ高かった。これではね、おかげの頂けるはずはないです。
ですからどこの所に、それがそう言う事になるかと言うと、「目先は二銭損のようでも」と二銭、目先が二銭損のようになるから、それを実行しきらんとです。ですから言うならば、親先生はああ言われるけれど、教祖様はああ言われるけれども、ああ教えて下さるけれども、どんなに考えても、私は人間心を使うたら、こちらの方が良かろうごとあるけれどもという生き方しかせずに、それが二銭損をする言われた通りにしたら、返っておかげにならんような思い方をする所に。
教えを本気で行じよう、本当に教えを行じておかげを頂いて、力を頂いたらもう行じなければおられない程に素晴らしい事なんだ、教祖様の御教えというのは。そして今朝また頂きましたのが、またここです七十九節。この七十九節と言う事の御教えやら、昨日の頂きました、年寄りを大切にせよと、言った様な御理解やらは、もう御理解の中でももうあれよりもうここに出ておる以外説きようがない程しの難しい御理解です。
それを合楽の場合、本当に神様の知恵を以っ説かして下さるから、思いもかけない所に、御理解が進展して行き、深められて行き広められて行く所のおかげ。今日は例えば二銭損のようでもと言う所をです、自分の思うとる方が良いと思うけれどもです、そこん所を教祖様がそう仰せられるのだから、そう教えて下さるのであるからと頂かねばならんと言う事を、聞いて頂くそこが中心、焦点になるべきと思うんですよ。に思っても大事にされない年寄りが居る。
根性の悪い頑固爺であったり、こんにゃく婆であったりのような、その婆さんら爺さんがやっぱりおるわけです。浅ましいまでの矢張り人が居る。人が相手にしないだから、そういう人達があるわけです。けれどもね大きな天地神様の目からご覧になったら、神様の演出なさるドラマの中の一人であると言う事、神様の筋書きに作りなさったお芝居の役割を務めあげた人たちだという、それがどんな悪人であっても、善人であってもそのドラマの中に出てこなければドラマがドラマにならんのです。
そういう意味でです、神様の目からご覧になった一人の人間氏子というものを見るときに、成程教祖様が仰るように、早く生まれて来とれば早く生まれて来とるだけ、それだけ世の中のお役に立った事だからと仰せられる意味が分かるでしょう。もうあん爺さんばっかりゃ世の中のほんな語句つぶしじゃった、あの婆さんばっかりゃもうろくな人じゃなかったと、例えば言う人でもですよ神様の目からご覧になると、そういう悪役なら悪役を勤め上げた人達なのです。
世のお役に立って来た人達なのです。だか大切にしなければこれは人間の見るからじゃない、神様の目からご覧になってのいわゆる見方なんです。言うならこの御教えだってそうです。神様の眼から御覧になれば、「二銭目先は確かに損だけれども、そうせえ」とこういう。「それの方がいうなら得でもありゃおかげにもなるんだと」教えておられる。私どもの見た目にはどうもそれはいけないようにあります。
けれども神様の目からご覧になった所は、矢張り目先は二銭損のようでもと言う事は、人間心で思うと右の方が良いと思うけれども、神様が「左」と仰せられるからと、その左の方をいうなら御神意のまにまに動かせて頂こうと言う事。そこん所をです大事にせなければならないかと言う事を、私はこの七十九節は教えてあるんだとこう思うんです。私は本当に、合楽の御理解が生きた御理解だなといつも思わせて頂く事は、昨日ある方が夫婦でお参りになりました。
もうそれこそ沢山のお金をかけて、大きな今度お商売なさろうとしておるお願いがあっとりました。おかげで段々スムーズにこの正月には開店が出来ると言う所の運びになった。所がその家を建てなければならない角に、自分所の借家がある。その借家に入っとられる人がそのどうしても動きなさらん出らんち。だからその方が出なければそれが中止しなければならんと言う事になった。
「そげなことなら、早うからお願いしときなさらよかった所に」と、私が申しました。そしたら「いえもう出るもう出る」と。とても大体優しか人らしいんですよ、その相対して話すとです。そしてもう出るもう出ると言いながら、ギリギリになっても出られん、という訳ですね。それが矢張りもう七十四、五にもなられますけど、若い時からいわゆる「テラ銭」を取って博打場の「テラ銭」を取って生活として来たという夫婦らしいです。夫婦二人限りらしいです。
ですからこちらが探してやった家には狭いの広いのと言うて入られん、と言うて自分が借りに行かっしゃったら、もう昔が昔じゃから誰ぁれも貸手がないといわっしゃる。私はもう本当に、そのお届けを聞かして頂きながら、ははあ今日の御理解をこの人達が解ったらおかげを頂くなと思いました。もう世の中の言うならば、本当に厄介者で通って来た夫婦なんですよ。勿論沢山立ち退き料もやるから、もう出る事になっておるんだけれども、出らない。もう日にちも迫っておる
だから世間ではそう言う様に爪弾きをされるような、そういう生涯を送って来た夫婦であってもです、もうやんがて八十にもなろうかという老夫婦なんです。けれども人間の見た目にはそう言う様に世のお役に立つどころかかえって、返って人間の幸せに邪魔をして来たような人達なんだけれども、これを神様の眼で見るとです、神様の見地を以てすると、そういう誰でも嫌だけれども、悪役を勤め抜いて来た人達だと思うて、「その人達の立ちゆきを本気で祈り願われたらおかげになるよと私は申しました。」
もうそげな事聞いた事は始めて、どうした年寄りじゃろうか、どうした奴どんじゃろうか、昔が昔じゃからやっぱりとばっかり思うておった。
所が、そういう意味に於いて、今朝の御理解がそういう御理解だったんですよ。そこにあなた達が参って来た。今朝の御理解をあなた方が聞いて守ればね、おかげになると私は言いました。ほんなごとそう言やもう、ほんに一寸出て行ったら、これで厄払いで厄落としと言った様な気持ちで、とにかくまあさあ出てくれ出てくれと言うて、向こうは喧嘩腰には絶対ならん。向こうは年寄りですから。けれどもどっこい「右」と言えば「左」と言うて、言う事を聞かない。
どうにももう出来んから、合楽の金光様にお願いに行こうというて、昨日そういう風にお願いに見えたんです。そして昨日の朝の御理解なんです、ね、私も絶対、昨日の朝の御理解をあの方達は聞いて、私の言う事を聞いて、ほんにそうだねと言うて帰って、そういう心になられたら、必ずおかげになると思うです。で皆さんどうでしょうか、皆さんの周囲におられると、年寄りの方達をですそう言う様な見方で、本気で大事にしようと、昨日思うておられるでしょうか。
またそういう事を実行されたでしょうか。それを実行しなければ金光様の御信心は本当のおかげにはならんというのです。私は昨日そういう意味で、そういう特別のケースでの年寄りの方の御取次をさせて頂いて、成程合楽の御理解は生きておるなと思いました。だから、そういう生きた御理解をですよ、皆さんが生きた心で、ああほんに自分の周囲に居られるならお年寄りをそういう心で、本気で大事にしようと思い。
それを実行しなかったらおかげにならん、おかげにならんという事を、まあ本当な意味に於いてのおかげにならんですね。教えは守らんでもやはり御利益的なおかげはなら皆頂いてますから、けど私はこの七十九節はどうでも御教えを行じさせようという御神慮の非常に深いこれは御教えだと思いますよ。だから決してこれは商売人だけの事じゃない、商売人だけがいわば売場買い場じゃない、目先は二銭損のようでもと目の前に自分の都合の悪いことがあると、それは御神意であってもそれを自分で右左にする。
自分の都合という事も考えず、神様の心神様の見地神様の御覧になった所を私共がです、行じて行く事が神の心を心とするという事だと思うです。御道の信心はね言うならば、天地の親神様の心を心とする事で、焦点が絞られればそれでよいのです。言うならば天地日月の心になる事に精進すればそれ以外にないです。そのようにですなら教えというものは大事なものですから、しかもなら合楽で説かれております所の生きた御理解ですから、お互いおかげを受ける者が生々とした心で。
今日はこの御理解に本気に取り組まして頂こうと言うて、それを実行して行じて行くならばです、必ずおかげになります。ただおかげになる事だけ願うただけで、神の言う事は聞かん途中で落としてしまう。そして自分で勝手にしておかげ頂き切らじゃったと言うて神を恨むような者もあるがと言う御教えもあるように。私はどこまでも一つ神様の心にならせて頂く稽古が御道の信心ですから、神の心を心としてと言う事を、この七十九節。昨日から、三回続けてここの所ばっかり頂くのです。
昨日も二回続けて青年会の方達を相手に七十九節であった。今朝又御理解に又七十九節であった。いかに神様がね、神の心を心として信心生活を送ってくれよという、深い祈りというか願いというか、それはまだ信心が微弱ですが、若い青年の方達にもですここん所を本当に、ここん所を繰り返し繰り返し説かれたと言う所から考えましても、そして今朝、ここん所を頂く事からに致しましても、本気で御教えを身につけると言う事が、取りも直さず神の心を心とする事になるのです。
しかも合楽の場合はです、それが生きた御理解でありますから、皆さんの生きた心で、それをキャッチする所の信心を身に付けていかれたら、おかげになると言う事を、昨日御取次をさして頂いた。お年寄りの元遊び人であったという人の例を聞いてもらいましたね。生きた御教えを生きた心で頂き、そして生々として行じる所から、おかげも又生々としたおかげになって来ないはずがないです。
どうぞ。